さて東山千栄子さん、1917年に夫婦で短期間日本に帰ってきていた間にロシア革命が起きてしまい(歴史~!)、その後の旦那様のフランスやアメリカへの赴任には同行せず(もったいな~い!)、その間日本で「有閑夫人」をやっていたそうです。
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そんな私が、どうして役者になったのだという質問には、モスコー芸術座で観たチェホフの芝居、トルストイの芝居、メーテルリンクの芝居、その美しい舞台が私の心の底に演劇の情熱を燃やさした―と答えたいところなのですが、実際のところは大正八年に日本に帰ってきてみると、子供もいないし、両親も亡くなっていて、全くの有閑夫人だった、私の心の空虚さが、築地小劇場に入った動機だったのです。
女中が三人も四人もいて主人と二きりの生活―自分の情熱のはけ口がないのです。結局、恋愛でもするようになる。正直なところ、そんなゴシップもとんだことがあります。それでは主人の顔を汚すことになるので、奥様芸だったけれども、長唄をやったり、ピアノを習ったり、絵を描いたり、とにかく自分の情熱をもてあましていたわけです。
そんなときに小山内先生や土方与志先生が築地小劇場を始めたという話をきき、なかなか評判も高いので、一度観に行ったわけです。(略)芝居を観ていますと、洋服の着附けなどが下手で、西洋人になっていないのです。八年も外国生活をしてきたので、着物の着附けだけでも、私がやったら、奥様と女中の区別位はつくのじゃないかと思ったが―年もとっているし、素養もある筈はなし、とてもスターなんかにはなれそうもないけれど、女中の役でもなんでもいい、情熱のはけ口として、こんなにたのしい世界は、他にはないのじゃないか―。
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夫婦二人にたいして女中さんが3~4人だの、あのお顔とキャラでゴシップだの、趣味で長唄!?だの、もうツッコミたいところがたくさんなのですが、やはりこれを読んでビックリしたのは、大正時代の日本人がいかに洋装の知識が無かったか、ということです。奥様と女中の区別もつかない衣装ってどんなの着てたのさ、築地の人達は!?!?…と思うと同時に、とうに廃れてしまった新劇ですが、何にでも手探りの黎明期があったんだなぁ~と日本近代演劇の歴史を垣間見たようで小さく感動せずにはいられませんでした。
写真は千田是也のハムレットと母ガートルードです。あの顔でガートルードか。。。