さて、東山千栄子さんの話の続きです。
生家が佐倉藩の家老であったり、明治の世に養父が帝大教授であったり、女学校を卒業してからはフランス語を習ったり、旦那様が貿易商でモスクワ支店長だったり、金貨で買い物をしたり、ヨーロッパの小説の原書の入手は思いのままだったり、モスクワではオペラやバレエやはてはスタニスラフスキーやチェーホフの芝居をリアルタイムで観たり…ともう私なぞから見たら「自慢!?全部自慢!?自慢大会!?」と思えるようなエピソードの連続なのですが… 女学生時代の章で、こんな風に書かれていました。
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私が麹町の富士見高等小学校の高等二年のとき、学習院女学部の入学試験を受けました。明治三十六年のことです。
当時はまだ階級的な差別観が、どの社会でもきびしくて、私の家は代々佐倉藩の家老だったとはいえ、貴族の子弟を教育する、学習院に堂々といけるほどの格ではなかったのですが、なんでも、学者の子供を、華族のあいだにいっしょに入れて、生徒全体の学力を高めることになっていたんだそうです。富士見小学校は、当時できる生徒ばかりでした。ちょっと自慢めいてきますが、私は二、三番を下ったことがなく、学習院の試験もよくできました。
ところで、私の代わりに、合格者の発表を見にいった人が、おどろいて帰ってきました。一年生の合格者の中に、私の名前はなく、二年編入の名前のなかに、私の名前がはいっているというのです。私もびっくりしました。ハテ、そんなことがユメにもあることでしょうかと、首をかしげました。ところが、ほんとうでした。あとで、学校に家の人が、たしかめにいったところ、私を一年生にいれたのでは、学力がありすぎ、ほかの生徒がこまることを心配して、特に二年編入ということになったということです。
下田歌子先生が校長先生でした。学習院はほかとちがって、通信簿は、封書になっていて、そのまま親に渡すようになっていました。一学期の通信簿の成績で、乙が二つあったので、私は、おやおや、小学校では全甲の成績だったのに、ばかに成績がおちたと首をかしげました。ところが、ほかの人たちは、「甲が二つあったわ」とか「甲が四つになったわ」などと言って、話しあっているのです。こんなわけで、学習院は勉強の点では、ずいぶん楽でした。
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・・・???わざわざ「ちょっと自慢めいてきますが」とあえて断って話す内容が、たかだか小学校と試験の成績の話。他の「自慢」に聞こえる話は彼女にとってただの自分の歴史の一部でしかなく、「自慢めく」話でさえないのでしょうか???だとすると、朝吹登水子の軽井沢のお嬢様生活も自慢じゃなかったのかな…??
ところで、学習院女子部長が下田歌子だった時代…に生きてる人なんですね…明治だわ。
写真は生涯の当たり役となった、チェーホフ「桜の園」のラネーフスカヤ夫人です。